父と酒と煉獄杏寿郎

 

邦画興行収入歴代一位、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』

この記事を書いている時点での興行収入は365億円。1年かよ。

 映画史にも文化史にもきっと名を残す大作になるだろう、この一作。

私が観たのは2020年12月、公開から2か月後のことだった。

 

鬼滅の刃という作品のことはもちろん知っていた。

老若男女に人気で、親戚の子供も職場の上司もみんなこぞってアニメをみていた。

しかしなんとなく話は知っていても見たことも読んだこともなかった私が、『無限列車編 』をみようと思ったのは、このビッグウェーブに私が体力のあるうちに乗らなければ、次にまたこんなすさまじい勢いの作品の波がいつくるのか解らなかったからだ。

コロナ禍なんて感じさせないほどに毎日怒涛の勢いで興行収入、来場者数を伸ばす文字通り化け物級の作品。

十数年、数十年後にまで、この波を経験したかは生きてくる。

もうみえる、ジジババになったフォロワーたちと「あったねえ、鬼滅」「あったあった、わしゃ何回映画みたかわからんよ」「水の呼吸~ガハハ」という会話をする未来。

オタク老人ホームのレクリエーションタイムでハレ晴レ愉快と紅蓮華を歌うんだ。

そのフォロワージジババに混ざれないのは淋しい……!

 

意を決して、アニメ版を履修。

最初こそぴんと来なかったものの、私は生来「兄」属性に弱いので、那田蜘蛛山編ではもう「いろんな兄が選り取り見取りだ!!」としゃあしゃあと言っていた。

そして柱合会議を経て、満を持して『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編」へ!!

 

 

いや大泣きなんだけど。

 

 

そんなわけある?

いやだってアニメ版みてたとき、そうでもなかったじゃん。

面白いけどハマるってほどでもないかな~みたいな。

自分の理解力がなさ過ぎて、錆兎の面を切ったと思ったら大岩を両断したくだりが解らなくてオヘヘヘとか言ってたじゃん。

まず夢の中で炭治郎が、花子と茂の姿をみて走り寄って泣くシーンで泣いた。はやい。

「わかるよたんじろぉ~~~~おまえだってまだ子供なんだよな~~~~。辛い修行に明け暮れたり、隊士たちの死を目の当たりにしながら任務こなしてきたけど、まだ子供なんだよな~~~~~~!!!!」の気持ち。

 

でも私は漫画を読んでいなかったので、その怒涛の展開についていくので必死だった。

美麗で崩れ知らずのバトルシーン、細やかな心理描写、圧倒的だ。

これが一大ムーブメント、歴代興収一位……

 

ちなみに初見の感想はふせったーにまとめたので、よかったらみてください。

殺し合いをするBL好きの視点から書いているのでめちゃくちゃ勝手です。

https://fusetter.com/tw/OZkBQa87#all

 

と、ここからが本題。

そこから私は寝る間を惜しんで、コミックスを読み漁った。

あの勢いはなにかにとりつかれているとしか思えなかった。

心臓と脳がずっとゆだっているのを感じながら私は「鬼滅の刃」を履修し終えた。

と、同時に、私の心を離さなかったのは「鬼滅の刃」という作品ではなかったことに気がついた。

もちろん作品全体がずっと面白い。

キャラクターも魅力的だし、テーマ性、バックボーン、どれも刺さる。でも違う。

それは、「無限列車編」でもなかった。

それは、「煉獄杏寿郎」、その人だった。

 

*  *  *

 

自分語りをしよう。

私は小学生のときに母を亡くした。病死だ。よくある。

2、3年の闘病生活を経て、母は冬の空へとあっけなく旅立っていった。

そのころの記憶はすでにあまりないし、なんだったら私はいまだに母を失ったという実感がない。

母がいないことは事象として理解していても、心に喪失感を感じたことがない。

(余談だけど、父母を亡くしている人にそれを話の流れで告白されたときに「あ、ごめんね」というのはやめた方がいいと思う。謝られる方がなんか申し訳なくなる。「あ、そうなん?」で済ませた方が絶対無難だ)

しかし、それはきっと私だけだ。

母は、気風が良くきっぱりした性格の才媛であった。

それはだれもが認めるところで、母が嫁いでくる以前から経営の思うようにいかなくなっていた祖父の起こした会社をその敏腕振りで支え、私が生まれたあとも、手のかかる私を厳しくそして豊かに育て、私の同級生であっても間違ったことをしたら叱りつけるような母だった。

ゆえに、母の喪失は誰にとっても大きかったように思う。

母の葬儀に参列した人は、私よりよほど泣き、私のしらない美しい母の素晴らしさを聞かせたがった。

そして誰よりも、その喪失に心を切り裂かれたのが父であった。

父の涙を初めて見たのは、母を看取った病室だ。

既に息をやめた母に寄り添って私と父は静かに泣いた。

父はその時、仕事柄ついぞ母が指輪をつけることのなかった左の薬指を優しくなでていたのを覚えている。

葬儀が終わって少しの間はよかった。

片親、しかも男手ひとつで私を育てようと奮闘する父は、慈しみ深い人だ。

慣れない家事を親戚の手を借りながらも私と父はこなして日々生活をしていた。

 

だが、ある日ぷっつりと、父の中の何かが切れてしまった。

父は会社をたたみ、酒に溺れるようになった。

私が学校から帰ってくると父が居間で力なく倒れ込んでいる日々。

いままでみたこともなかったワンカップのカラが床にたまり、私は朝にそれを隠すようにしてゴミ捨て場に持って行った。

路地にガラガラと響く、その父の逃避の証拠を、どうにか誰にも見つかりませんようにとゴミ捨て場の奥にねじ込む。

そういう日々だった。

父はたいてい、呻きながら眠っているか、胡乱な目で酒を舐めているかだったが、たまに、ごくたまに、立ち上がる時があった。

そういうときは大抵、なにかに苛立っていて、家の壁を蹴っている。

だから私の実家には壁の下にへんな布切れが貼ってあるところがいくつかある。

幸運だったのは父は私にほぼ暴力を振るわなかったことだ。

暴力を振るえるほど酒が抜けていることがなかったとも言えるが、父はいつも壁や床を蹴りつけるばかりだった。

しかし、だからといって、当時の私に「その拳が、足が、永久に自分に向くことはない」なんて確証はなかった。

半端に父に意識があるときは私は勉強机にカッターをおいて机に向かって静かにしていた。

なにかあったら、

なにかあったら、父を殺せるように。

自分の身を守るために、自分が死なないように、父を殺せるように。

 

日数から言えば、父が自失していた期間はそう長くない。

私に暴力を振るったのは一度だけ、それすらもはずみで手が当たってしまったようなものだ。

そうして蹲る私を見て、父はより深い苦悩に溺れ、謝りながら酒を喉に押し込めた。

それから少し経ち、父は数度の救急車での搬送と数日の入院を経て、酒を断った。

それから10年は軽くたったいまですら父は一滴たりとも身体に酒を入れていない。

私との関係もすこぶる良好だ。

 

しかしたかがほんの少しのあいだとはいえ、私にとってあの地獄はすさまじいものだった。

学校に行っている間は、父がそのまま死んでしまわないだろうかと不安になる。

そのくせ家にいる間は、自分が殺されるんじゃないか、父を殺さなければならないんじゃないかと考える。

そういう漠然として抽象的な死の気配が、あのころ家には立ち込めていた。

死の臭いは、腐乱臭などでも、線香の匂いなどでもない。

それは死後の静寂のにおいに他ならない。

あの独特の緊迫感と陰気な影が実態をともなって黒々と家を満たす感覚、酒と人の生きている臭い、眠る寸前まで枕元で握りしめていたカッターの柄が肌に食い込む痛み。

そういうものが死の匂いだ。

私はドラマチックに、王子様みたいに、そこから連れ出してくれる誰かを待っていた。

ずっとずっと待っていた。

 

果たしてそんな美しい物語めいた救済はなかった。

いつものように父は酒を呑み、その介抱の延長として緊急搬送があり、病院から帰ってくると父は憔悴しきった顔で私に頭を下げて謝った。

そして地獄が徐々に終わった。

なにに助けられたのかは解らない。

もちろん、手を貸してくれた学校の先生や親戚の力は偉大だ。

ただ私はいまだにあの時間をなんだったのか理解できずにいるし、あそこから私は救い出されたのかも解らずにいる。

きっと救われたのは父だけだ。

私は救ってほしかった。私を救ってほしかった。

 

*  *  *

 

この記事を書いている途中に私は無限列車への乗車回数が20回を超えた。

12回目あたりからまともに数えなくなったのでちょっとあやふやだが、たぶん20は超えた。

どうして私がこんなにもひとつの映画をみているかと言えばひとえに私が煉獄杏寿郎のあのセリフが聴きたいから、それだけなのだ。

そして千寿郎 お前は俺とは違う!

お前には兄がいる 兄は弟を信じている

どんな道を歩んでもお前は立派な人間になる!

燃えるような情熱を胸に

頑張ろう! 頑張って生きて行こう! 寂しくとも! 

 恥ずかし気もなく言えば、私は煉獄杏寿郎のような闊達で人思いな兄が欲しかったしその兄にこう言ってほしかった。

もっと言えば、千寿郎くんの手を引っ張って兄上にはあの地獄から連れ出してほしかったけど、現実問題それも難しいんでしょうね……

ともかく私は、ともにあの地獄を歩んでくれる人がいてほしかった。

だから私は映画を何度でも観るし、煉獄のその生きざまをもっとみたいと思った。

 

この記事、結局何が言いたかったかというと、

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』がすごかったという話ではなくて、それを通して10年以上越しにようやっと自分の人生の汚点であると思っていた日々に向きなおったよという日記だ。

私は父がそういう風になっていた時期のことを誰にも話したことがなかった。

けっこうあけすけに何でも言うタイプの人間だと自分のことを思っているが、このことは本当に誰にも言えなかった。

それを今こうして世界中どこからでもアクセスできる媒体で発信できるようになったんだからすごい。

あのときは救済してもらえなかったけど、2020年になってようやっと十数年越しに自分を救ってもらっている。

そういう意味で『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』に頭が上がらない思いだし、この作品(原作もアニメも先生も、制作にかかわったすべての人が)が永劫凄まじく輝かしい日の光のように暖かに愛されることを祈ってやまない。

 

おまえ、生きててよかったな。

救いってのはいつ訪れるか解らないものだな。

 

 

 

ちなみに私が無限列車初乗車してから気が狂ったように感想や解釈をしている様子はモーメントにまとめてあるので、

気の狂ったオタク語りが読みたかった方はそちらをどうぞ。

https://twitter.com/i/events/1370676690851045377?s=20

https://twitter.com/i/events/1358270907798593537?s=20