「おにいちゃん」という神様
※ 以下8割、嘘を書いてあります
ひとりっこです。
甘やかされて育ちました。
ホールケーキのチョコプレートはいつだって私のものだし、自室というものが幼い頃からありました。
私の「兄」のはなしをしようと思います。
兄は私の親族のうちのひとりで、実兄ではありません。
便宜上「兄」と呼びます。
兄は私とひとまわり近く年が違ったので、幼い頃の私にはあまりみたことのない「大人の若いひと」でした。
* * *
私と違って頭もよく、運動も出来て、快活な兄は、その底なしのコミュニケーション能力がむしろ欠点ともいえるような人で、おもしろいことは積極的に体験しようと動き、どんな人とも区別なく友だちが多い人だったように思う。
数学の難しい問題を塾にいっしょに通う同級生たちとゲラゲラ笑いながら解いていたかと思えば、学校の教員も手を焼くような不良と川辺で花火をしてぼや騒ぎをおこしたり。
私は人見知りが激しくおとなしい子供だったが、兄はあうたびいつも私をだっこしたついでに宙に放り投げて逆さにキャッチし左右に振り回すという遊びをしていた。
私の母は「遊んでもらってよかったわね」と私に言ったが、いま考えてもあれは兄が私で遊んでいたのだろう。
兄との思い出で私がよく覚えているのは兄が地元を離れて進学し、夏休みに帰省したときのことだ。
地元の夏祭りに兄は私を連れて行ってくれた。
いま考えれば兄は私の母などに「お給料」をもらって私の子守というアルバイトをしていたんだと思うが、私はあこがれの兄に連れられて夏祭りに行くというのが楽しみで仕方なく、仕立ててもらった浴衣を窮屈だと言うこともなかった。
兄に手を引かれ、いつもの何倍もの人であふれかえる道を歩くとき、私は気恥ずかしさと誇らしさで胸がいっぱいだった。
誰がみてもかっこよくて世界でいちばん素敵な「おにいちゃん」だと思っていたからだ。
私はあれがほしいとあまり言わない子どもだった。
なにかをねだるのは恥ずべきことだと教えられたし、なにかをねだって呆れられるのが怖かったからだ。
兄に夏祭りに連れて行ってもらっても、私はなにもほしがらなかった。
兄にとっては面倒な子どもだったことだろう。
むっつりとした顔で下駄をカラカラ鳴らすだけの子どもは。
兄は私にじゃがバタを買ってくれた。
食べたこともなかったじゃがバタは、兄が買ってくれたというだけでなんだかすごく特別でトレンド感のある高級なものに感じた。
買いたてのじゃがバタを口の中に入れて、熱がって涙を流す私を兄はお腹を抱えて笑っていた。
私は兄が笑ってくれたことがうれしくて、舌が火傷していてもそんなことは関係なかった。
帰り道に私が唯一ほしがった、クリスタルにレーザーで天使が彫ってあるネックレスがいまでも引き出しにしまってある。
ペンダントトップを繋ぐ金具にボタン電池がはまっていて、しっかり留めると青いライトがついて天使が浮き上がってくるネックレス。
いまでも引き出しに入っている。もう20年は経つというのにいまだに青いライトは変わらず灯る。
ここ最近は、あのライトが点かなくなってしまっているんじゃないかと怖くて点けていないけれど。
兄がくれたものはいまでも記憶の中できらきらしている。
ピンク色のプーさんのぬいぐるみ、ロンドンで買ってきてくれた近衛兵の服を着たテディベア。クリスマスのボールオーナメントに入ったリンドール。
きっと兄にとってはどれもがちっぽけなものかもしれない。
歳の離れた親戚の子ども、たまにからかっただけの。
藪においていかれたこと、兄にひどいメールを送ったこと、兄の結婚式で体調を崩したこと。
捨てたい思い出もたくさんある。
兄のようにピアスをあけたいと言った私に「高校卒業したらあけてやろっか」といった兄。
覚えていないだろうけど、私は高校の卒業式のその日まで、兄がこの耳に先の見えるような風通しのいい穴をあけてくれると信じていた。
結局その穴は自分であけた。何も変わることはなかった。
それでも兄が私のなかの何かをつくりあげて、何かの指標で、何かの支えだ。
きっとこれは変わらない。
身も蓋もない話をすれば、私は兄にクソデカ感情をこじらせている。
もはや年に数回会話をすればいい方である兄に対して。
兄の抱える病が兄を蝕んでも、つらい夜に私では支えにならない。
今際の際に私を思い出すこともないだろう。
そうであってほしい。
神様は信ずる者に特別な感情をもたない。
私は幼少期の思い出をそのまま神様にした。
それはたとえ、神様であるおにいちゃんにもとめられないのだ。
どうかおにいちゃん、永遠に仕合せにいてください。素敵な奥さんとかわいいお子さんと。
私にはおにいちゃんがたわむれに与えてくれた愛情の記憶があるので、たぶんへいきです。
※ 以下8割、嘘でお届けしました